はけの森美術館

中村研一の住還

中村研一の住還

  本展では、洋画家・中村研一の、生涯におけるさまざまな() () に注目しました。
本ページでは各章から1作品ずつ、作品にまつわるエピソードをご紹介します。
※掲載されている作品はいずれも小金井市立はけの森美術館の所蔵作品です。


都市―災害、戦争からの復興

都市―災害、戦争からの復興

 1923年9月1日に起きた関東大震災。当時、中村研一のアトリエは代々木初台町(現在の小田急線参宮橋駅付近)にありました。同年2月にフランス留学していたので本人は不在でしたが、きっと大きく揺れたことでしょう。
 パリから帰国した翌年1929年に結婚した中村は、新婚生活をこの代々木宅でスタートさせています。《室内図(居室兼茶ノ間兼画室兼書斎図)》は、結婚後一年たったころの暮らしの様子を描いたものです。
 結婚のお相手は海軍少将中村正奇氏の長女・富子さん。奇しくも同姓ですが親戚ではなく、帰国後程なくの、お見合いでの出会いです。結婚は非常にうまくいっていたようで、《室内図》にはあちらこちらに「富子」を描いた作品が。さらには“研一”と“富子”の相合傘まで書き込んであるので、探してみてください。


都市と郊外のあいだ―明治神宮と、二つのアトリエがある家

都市と郊外のあいだ―明治神宮と、二つのアトリエがある家

 代々木宅は、明治神宮の近くにありました。ここは、まだ中村研一が東京美術学校の学生だった1916年に建てられたといいますが、一方の明治神宮も1915年に造営公布、社殿が完成したのは1920年です。明治神宮の築造が日々進んでいくのを傍らに、東京美術学校に通っていたことでしょう。
 なお、代々木宅は結婚後に増築が行われたようで、二階にもアトリエができました。この二階アトリエは、サンルームも付いた明るい場所だったようです。
 《婦人像》は制作年不詳なものの特徴的な床材からこの二階アトリエで制作されたものとうかがえる一作。日向ぼっこしつつ、デッキチェアでまどろむのは容貌から富子夫人でしょう。日差しは暖かくてもまだ春は浅いのでしょう、ピンク色のワンピースにはベストを重ねて、デッキチェアの背もたれにはカバーがついています。


郊外―疎開と終戦

郊外―疎開と終戦

 1945年5月、中村研一は東京から茨城県沢山村へと疎開しました。9月までの疎開生活の間に、代々木の中村宅は空襲によって焼失します。留守宅には戦前から描きためた作品や熱心に蒐集していた古陶磁が残されていたといいますが、そうしたものともども、長年親しんだ住まいは失われてしまいました。
 一方、当人は疎開先での暮らしをいくつかの作品に描き留めています。そうした作品の一つ、《編物》にはタイトル通り編み物をする女性―おそらく富子夫人でしょう―が描かれています。背後にはよく見るとラジオらしきものがあります。中村は、このラジオで終戦を知ったのでしょうか。

道の向こうの海と空―初公開《福井一二氏の肖像》

道の向こうの海と空―初公開《福井一二氏の肖像》

 さて本章では、新収蔵作品《福井一二氏の肖像》(1923)が展示されています。この作品は収蔵時点で経年による絵具の剥落など保全上の課題があったため、まずは修復が行われました。モデルとなった福井氏は当時41歳、客船・ 倫敦 (ろんどん) 丸で機関長を務めていました。この倫敦丸は中村研一がフランスに渡る際に乗船した船。この《福井一二氏の肖像》は、28歳の中村により、フランス・マルセイユ到着までの船旅中に描かれたものと言われています。
 船の上で描かれた、船乗りの肖像画―本作を見たら、きっと「なるほど」と思うでしょう。ということで、最後の一作は会場でのお楽しみ。ぜひとも実物をご覧になってみてください。